【日本語に活きる中国故事】開高健との「手に汗握る」国際電話
55年前、開高健との手に汗握る国際電話 『ベトナム戦記』舞台裏 200人中生還は17人、残っていた肉声(withnews、2021.12.24)
週刊朝日の連載のためにあえて戦火のベトナムに飛び込んだ開高健は、1965年2月14日、ジャングルのベトコン掃討作戦に従軍中、ベトコンに完全に包囲された。乱射乱撃の猛攻により死を覚悟して潰走。200人の大隊のうち、集結地点にたどり着いたのは17人で、まさに「九死に一生」を得ての生還だったとのこと。開高は、その直後の第一報を、サイゴンから国際電話で週刊朝日編集部に伝えた。その時の緊迫した様子が「手に汗握る」に凝縮されている。
「手に汗握る」ということばは、『元史』の次の故事に見られる。
憲宗(モンケ・ハン)が即位し、趙璧に「天下を治めるにはどうすればいいか」と尋ねた。趙璧が「まずは、陛下の側近の中で特に良くない者を誅殺してください」と答えると、憲宗は気に入らない様子であった。退出した趙璧に世祖(後のフビライ・ハン)がこう言った。「あなたは全身が肝っ玉なのですか。私はあなたのせいで【両手のひらに汗を握りました】。」(『元史』趙璧伝より)
上の【 】の部分の原文が「握両手汗」で、ここから「手に汗握る」という表現が生まれたと言われる。
モンゴル帝国第四代皇帝のモンケは、自分に盾突く者は容赦なく処刑するという専制君主であったことから、フビライは、趙璧の大胆不敵な進言に、肝が据わっていると感心するとともに、モンケの機嫌を損ねれば殺されるであろうと心配するあまり、手に汗を握ったのであろう。あるいは、フビライはモンケの実の弟で、後に第五代皇帝となるのだが、当時はモンケの側近であったことから、自分が殺されるかもしれないと心配したのかもしれない。
(瀬戸 2022/3/20執筆)