日本語に活きる中国故事

「糟糠の妻」寧々(ねね)

中國故事

【日本語に生きる中国故事】「糟糠の妻」寧々(ねね)

『糟糠の妻はなぜ捨てられるのか』(プレジデント社、2016年)

これは、婚活アドバイザーで、不倫カウンセリングも数多くこなしてきた大西明美氏の著書。表紙に、「男は成功すると、支えてくれた女を捨てる!」とある。

「糟糠」とは、酒粕と米ぬかのことで、転じて貧しい食事を指す。そこから、「糟糠の妻」は貧しい時から一緒に苦労をしてきた妻のことを言うようになった。

大西氏によれば、昔も、30~40代で愛人を作る武将は多かったが、多くは本妻と添い遂げていたのに、「現代は成功した男(以下、成功男と呼ぶ)が貧しいときを支えてきた『糟糠の妻』を捨てるケースは目に見えて増えている」という。それはなぜか。続きは本書でご覧いただきたい。

「糟糠の妻」ということばは、次の故事に由来すると言われる。

後漢の光武帝(紀元前6年~57年)の姉の湖陽公主が夫に先立たれた。光武帝は、公主が家臣の宋弘の容貌と立派な人柄にひかれているのを知ると、公主を屏風の後ろに隠れさせておいて、宋弘を呼び出してこう言った。

「諺に、身分が高くなれば交友関係を変え、富を手に入れたら妻を変えるという。それが人として当然のことではなかろうか。」

すると、宋弘はこう答えた。

「貧しく賤しかった頃の交友関係は忘れてはならない。【貧しい時から苦労を共にしてきた妻は表座敷から下ろしてはいけない。】私はこのように聞いたことがあります。」(後漢書・宋弘伝)

【 】の部分の原文が「糟糠之妻不下堂」で、「不下堂(表座敷から下ろしてはいけない)」とは「家から追い出してはならない」ということである。

日本で「糟糠の妻」として名前が挙がるのが、豊臣秀吉の正室であった寧々(ねね)。寧々は、秀吉がまだ木下藤吉郎であった頃に嫁いだのだが、結婚式は夫の身分が低かったことから藁と薄縁を敷いて行われた質素なものだったと言われる。以来、秀吉が天下を取り、そして没するまで、献身的にそして知恵を以って夫を支えた。一方、秀吉は、女癖が悪く、また寧々との間に子供も無かったが、天下人にまで上り詰めても離縁することもなく、「糟糠の妻」を生涯大切にしたと言われる。現代の「成功男」とは大違いである。

(瀬戸 2022/1/6執筆)

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