日本語に活きる中国故事

対話的学習「一辺倒」では、日本の教育が危うい

中國故事

【日本語に生きる中国故事】対話的学習「一辺倒」では、日本の教育が危うい

「欧米を真似た『対話的学習』一辺倒では、日本の教育が危うい理由」(DIAMOND online、2020.8.3)

これは、『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書、2020年)の著者・榎本博明氏が、日本の学校教育の在り方に警鐘を鳴らすシリーズの4回目。

自己主張を重視するアメリカと、思いやりを持ったり素直・従順であることが重んじられる日本では、教育で目指す人間形成の方向性が異なっているのだから、「能動的・主体的な学びというと、対話的学びや討論、プレゼンテーションなど、積極的コミュニケーションのスキルに結びつける傾向は見直されるべきではないだろうか」と問いかけ、「教育においてほんとうに大切なのは、自分の頭で物事を深く考える力をつけさせることではないのか」と提案する。

筆者も、榎本氏のこの主張に大いに共感するところである。日本の教育界では早くから、文科省の音頭の下、深い学びを促すために、多くの授業で「対話的学習」を組み入れることが求められてきたが、にわか仕込みの見様見真似では所詮うまくいくはずもなく、結果的に浅い学びになってしまっているように思われる。

さて、前置きが長くなったが、「一辺倒」とは、次の故事に由来すると言われる。

謝顕道が言った。昔、儒学者の程顥(ていこう、1032~1085)先生が教えてくださったとき、私はひたすら先生の言語に執着するだけだった。すると、先生は、あなたと話をするのは、酔っ払いを助け起こしているようなものだ。【一方に倒れそうになるのを助け起こすと、またもう一方に倒れてしまう。】私の話を聞く人が一方に執着するのを恐れる。(近思録・為学)

この故事の【 】の部分の原文が、「救得一邊,倒了一邊」で、ここから「一邊倒」ということばが生まれ、それが日本語に取り入れられたということである。

ところで、『「英語一辺倒の外国語教育」をもうやめよう』というタイトルの本がある。(木本清著、鳥影社、2016年)

「外国語教育を、中・高校生が自分の意志で選択、そして『コミュニケーションの手段』として履修できる、本来の姿にもどそう」という提言であり、これまた、同感である。英語が国際共通語であることは否定しない。しかし、これだけ多様な国から来た多様な人々が日本国内に住むようになった今、受容力の豊かな中・高校生のときに、英語以外の外国語を学びながら、異文化で育った人々とのコミュニケーションの取り方を学ぶ機会が積極的に与えられているのが望ましいように思う。

(瀬戸 2022/1/15執筆)

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